話しがあっちへ行ったりこっちへ行ったりするけどそれがNEWSなのだ
ブログのコメントを含めて全部を見たい方は
『豊パパのニュースルーム』
突然、むかしの自分に出逢えてびっくり
今日は2020年8月30日です。
そうなんです。突然フラッシュバックしたように、私の17年前のブログが、
PC画面に現れたのです。
まだ日本でブログサイトが出はじめた頃の2006年から書き始め、その後ある事情で
”消された”はずのブログ
豊パパのニュースルームが何故か分かりませんが
検索に係るようになったみたいです。
(セキュリティ対策のため昔のブログからのリンクではなくコピーしています)
復帰はないそうです。
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11月30日以来のブログです。
いつになったらこのブログにコガナナ復帰の報告が出来るのかと思い 回答を待っておりました。
昨日e-radioから返事がありました。
私のコガナナへの復帰は社長の反対が強く、今後もあり得ないとの事です。
11月30日の放送後も写真や名前をホームページやブログに載せたまま50日も
放置されて来ました。
復帰が無いと知り、1月10日の時点で削除を要請しましたが、 次の出演者が見つかるまで放置して置くのは余りにも失礼なやり方ではないでしょうか?
このままでは私自身の意志で休暇をとり、 いつの間にか自分でフェードアウトしたかのようにリスナーさんやブロガーさんに誤解されかねません。
もちろん、コガナナに復帰しないのは私の意志ではありませんし、
誤解を受けたまま番組を終えるのは「豊パパ」として哀しい結末なんで・・・
今回の大津市長選挙との関連もあり、 ブログでは少しづつその顛末を書いて行きたいと
思います。
滋賀FM放送設置推進協議会 e-radioブログ2007/09/11 18:29
実は古いお話をイロイロ考えているうちに貯めていた資料というか雑多な記録が
アチコチにいっぱいあって、探しているうちにどんどん古い資料が出て来ました。
FM滋賀だけでなく、ジャパンFMネットワーク時代のものから、FM大阪時代の
もの、そして何と 学生時代にアルバイトをしていたTBS時代のものまでありました。
引っ張り出すだけで一週間かかったのだから、これを整理しながらブログに書けば・・・
3年はいける!! ちょっとオーバーですが
なーーんて言いながら、整理できるのか?という不安もあります。
いつまでかかるか (いつ始まるか?) 判らないのですが、
e-radio 以前と 以後を ACとBCみたいに2つのブログに分けて
書いていこうと思っているので、とりあえず、しばらくは「e-radioばなし」
から続けます。
ちょっと見にくいですが この名刺がその境目の時の名刺です。
96年1月くらい 滋賀に来た時に作ってもらった名刺です
何と電話とFAXは今と同じですが まだ 0775ー27- となっていますね。
e-radio開局裏バナシ 第1弾 (e-radioブログ)2007/09/13 21:03
ゲッ!3人なのに机が2つしかない
それは1月の寒い朝でした。 (北原ミレイ風にスタート・・・ あ、知らないか・・・)
正式にFM大阪から出向となったワタクシは浜大津にあった 事務局に
出社しました。
そこは いかにも開設準備室といった雰囲気のせまいせまい部屋でした。
常駐のメンバーはすでに長く準備に携わって来たN氏とH氏 そして今日から私。
ゲッ 3人なのに机が2つしかない!!
その瞬間から 私の第4のラジオ人生が始ったのです。
第1は学生時代バイトしていたTBS、第2は70年開局のFM大阪、第3はJFN
そして第4が開局1年前の滋賀FM放送設置推進協議会。
まだ「滋賀FM」なのか「FM滋賀」なのかも決まっていなかった。
そう言えば 現FM大阪に入社した時も正式社名は「大阪音楽FM放送」だった。
さて、滋賀の話にもどるが
その頃、準備室が間借りしていたのがこの建物
11年後の今もそのまま ありました。
結構古い感じですが、あの頃もすでに古い感じでした。
都合により 全景は差し控えますが、間違いなくあの時の窓がこの窓です。
”この写真はイメージ では ありません”
㊟ 2020年現在この写真だけでは分かりませんが
市立図書館の斜め前、タクシー会社の隣です。
今もありましたが、廃屋になってました。
e-radio開局裏ばなし 第2弾
e-radioブログより2007/09/03 21:55
もし、e-radio じゃなかったら
このブログを書き始めたとき、秘話も書いてみたいと言っておりましたが、そのあと駅弁やキレイでもない
自分の足などなど普通の(失礼)記事ばかりアップしていたら、某身内からも
「どこに秘話があるのさ」 など告発も受けています。
そこでぼつぼつ 本邦初後悔・・・ではなく初公開のお話を
2回目の今夜は 「もし e-radio じゃなかったら」
という お話。
FM滋賀の開局の10ケ月ほど前になりますが、
7~8人の準備スタッフが滋賀のいろんな会社から集まって
開局準備委員会のようなものを作っていました。
その会議でとりあえずステーションネームを考えることになりました。
その時の会議資料のひとつがこれです。
LAKESIDE LAKERS
Be-FM Be-WAVE
LUCKY STATION
BISSY
さざなみ
Biwac
biwax
FM-77
DAYS-FM
などなど たくさんの候補が出ては消え出ては消えていきました。
2枚目のプリントは当時の私のワープロ (懐かしい)に残っていた資料です。
自分でもいろいろなロゴマークや使用例をイメージしながら考えていました。
何回も会議をしている中で、biwaxーFM という名前が有力になっている
という話が外部にもれたため、某株主から 「 軽すぎる ふさわしくない 」
という抗議文が送られて来たりというハプニングもあり
大騒ぎの議論になっていました。
あなたなら どれを選んだ ?
E-Radio開局裏バナシ 第3弾かな? e-radioブログ 2007/09/09 20:28
その日はじめて E が出て来た。
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人間サマでも同様ですが 「 名は体を表す 」 と言うようにネーミングは大切です。
本当は人物があってはじめてその人の名前のイメージがアトで決まるのですが、誕生前というのは
本当に皆さんネーミングに重大な責任を感じるものなんですネ。
FM滋賀のステーションネームの あーでもない こーでもない は
前回にも書きました。
文字どおり決定的瞬間はこうしてやって来ました。
開局の年 96年の3月から4月にかけて局の方針を決めるコンセプト会議が頻繁に行われていました。
もちろん、未だ入社試験もなく社員はゼロの状態。
ネーミングだけでなく、たくさんの事をゼロから決めていかなくてはなりません。
大きくは 機器の発注、本社の場所、送信所の場所、会社の規模や事業計画などです。
何回目かのネーミングに関する会議の席で
あんな事もこんな事も・・・アレもコレもやりたいですねー と皆さん
から新しいステーションへの夢が語られていた。
そのとき、Tさんの口から
「 その夢が全部実現したら
本当に いいラジオ ですね ! 」
という発言がありました。
いい ラジオ
いい ラジオ 滋賀県に いいラジオ 作りたい
そうだ E-RADIO だ !!
(今でもその発言の瞬間は覚えています)
その日はじめて E が出てきました。
㊟ 発言者のTさんというのは当時アインズの轟さんです。
㊟ 左の画像は私のワープロのメモから
E-Radio 開局ウラばなし 第4弾 e-radioブログ 2007/09/20
お待たせいたしました。!!
開局準備で本社スタジオの場所探しをしていて、とっても気になったのは お城でした。
ここにFMのスタジオがあったら 日本一おもしろいFM局になる!!
もちろんプリンスはありましたが、琵琶湖ホールもパルコも琵琶湖ホテルも明日都も
まだ存在しなかった大津湖岸では 琵琶湖文化館は おもしろそうでした。
会議の時に、「もし、ここに引っ越したら社長は殿様の格好をしてもらおう」なんて冗談を言ってました。
琵琶湖の上に浮いているようなスタジオから四方を眺めながら番組が出来る。
いつものように 夢 はふくらむばかり だが・・・・
だが現実は 調べるにしたがって難問が立ちはだかった。
「県立の建物なので、県議会をはじめ、許可を得るのに1~2年かかるのでは・・・」
「外装、内装ともかなり傷んでいるので、キレイに修理するだけで何億もかかるのでは・・・」
「湖の真上なので 湿気がひどく 放送機器がすぐ故障するのでは・・・」
またまた 時間切れ (お金がなかったのもあるが)でこのグッドアイデアもあきらめざるをえなくなりました。
e-radio開局裏話し 第5弾 2007/09/17 21:56
今だから言える FM滋賀のうらばなし・・・
開局準備としてやるべきことは死ぬほどいっぱいありますが、
一番大切なのはスケジュール通りに案件を決定して行く事です。
免許・放送機器・局舎・スタジオ・送信所・株主・会社設立・社員採用・
番組編成・制作体制・ネットワーク体制、などなどやるべき事を挙げればきりがありません。
このほかにも、事業計画・営業計画・宣伝計画など課題はいっぱいありましたが、
中でも放送機器や送信所、スタジオなどは設計から1年くらいかかるのが通常
のスケジュールなのでどれかひとつでも大幅に遅れると開局が半年単位でうしろに
づれて行きます。(ふつうの場合、開局は4月か10月です。例外もありますが)
今だから言える 滋賀FMのうらばなし・・・
実は本社とスタジオが入る予定のビルの完成より放送免許が2年近くも早く
地元に降りたのです。
逆に言えば、ビル建設が予定より2年遅れたとも言えますが、 アトから参加した
私には詳しい経緯は分かりません。
「ビルが完成するまで、仮の場所で開局してもらえませんか?」
難題が降ってわいて来ました。
*** 私の夢は勝手に膨らんで ***
2年間 浜大津に真っ赤なサーカステントを張って局舎にしたら・・・ とか
オレンジ色の大型バスを5台くらいつないで局舎にしたら・・・とか
これしかない! びわ湖に白い大型ヨットを浮かべて・・・とか
果てしなく広がりましたが、当時の郵政省や電波行政の感覚からは
かなり、かけ離れ(今なら可能かも?)許可が出そうにありませんでした。
「それは 放送局ではなく 移動無線局ですね」と言われました。
何よりも先に オウチ から決めなくてはいけなかったのです。
左の写真が その2年後に完成した
とあるビルです。
この写真はイメージではありません (笑)
2007年9月29日 21:40
e-radioブログ、豊パパのニュースルームより転載
リンクスビル発見
前回は 本社ビルの候補地のひとつとして、琵琶湖文化館まで検討したということを書きました。
便利さ、広さ、高さ、面積、家賃、もちろん、条件としてはイロイロな問題があったのだが、何よりも時間が足りない という事が最大のネックでした。
放送免許の申請の時は仮の場所のビルで登録していたのだが、仮の場所では最低半年はかかる
放送機器の種類さえ決められません。
送信アンテナの位置はNHK-FMと同じ場所(現在の岩根山)と決まっていたので、
そこまでの音の送り方を決めるためにも場所の固定は必要でした。例えば、STLという電波を使った送りかたを選んでも、途中に高い建物や山があったら断念せざるをえません。
そんな時に地元のメンバーから
「ここは、あまり良くありませんが」
と言われて見に行ったのが現在のリンクスビルでした。灯台もと暗しとはよく言ったもので、
仮申請のビルのすぐ前に
放送局にはぴったりの変わった設計のビルがありました。
高松伸という気鋭の建築家(現在は超有名ですが)のビルがガラ空き状態で残っていました。
最上階の6階はレストラン仕様なので周囲は総ガラス張りで天井高も6m以上あり
放送局としても十分カッコイイ建物でした。
そして心に決めていた最後の条件も満たしていた。
最後の条件とは
スタジオからびわ湖が見えること !
リンクスビル発見 2
開局まで10ケ月にせまった2月末になっても未だ本社ビルは決まっていませんでしたが、最後に現れた候補の リンクスビルが3月に入って俄然優位になりました。
ラジオ局といえどもやはり滋賀にあって
スタジオからびわ湖が見えないのは意味がないと思っていましたが、案外見慣れている地元の人達が忘れていた条件かも知れません。
今でも、ゲストが始めて本社に来て
「びわ湖がキレイですねー」
「びわ湖って大きいですね」と言ってもらう度に、
「いやー これは南湖だけで・・・」
とかツッコミを入れながら、ここで良かったと思ってます。
私の当時の手帳によると、この年の3月15日に設計担当の人とリンクスビルを見に来て、初めてレイアウトの打ち合わせをしています。